【本の紹介】トルテックの教えから学ぶ「四つの約束」その3
(2022年5月 ブログ投稿)
今回は二番目の約束について解説します。
【第2の約束―なにごとも個人的に受け取らないこと】
これは、本によると
「第1の約束ができていれば自然と導かれるもの」
だそうですが、
実際にはこの約束についてはほとんどの人ができておらず、
そもそも「(この約束が)どういうことなのか」について、
イメージすることすら難しいものであるように感じています。
なぜならば、私たちは、
どちらかと言えばこの逆を常に意識しているからです。
なにかが起きた(起きてしまった)とき、
「自分に責任がある」「自分に要因がある」と考え、
実際に責任を感じなければならないと、思っていませんか?
スピリチュアルな考え方を学んでいると、
「自分の世界は自分で創っている」という考え方は良く出てきますが、
そうするとなおさら、
「何事も自分のこととして捉えてしまう」
ということが起きてしまいがちです。
そうなると
「なんだか矛盾している」と感じてしまうかもしれません。
でも、
「自分の世界は自分で創っている」
ということと、
「何事も個人的に受け取らないこと」
という約束は、本当は矛盾しないのです。
ここでは
「あなたの周りで何が起きようと、自分のこととして受け取らないこと」
と言っているのです。
他人に起きていることは他人のこと。
自分のことではありません。
「自分の世界を自分で創っているのだから、あれもこれも私のせいなのだ」
ということではないのです。
それを言うならば、
「何でもかんでも自分のせいにする」
という認識をする世界を創っているのは「自分」である、
ということにはなるかもしれません。
でも、自分で創っているならば、
そうではなく、
「それぞれが自分の責任を取る世界」
に作り替えることはできますよね。
それこそが、
「自分の世界は自分で創っている」
これがアタシの世界だニャ)
何故、
なんでもかんでも「自分のこと」として受け取ってしまうのでしょうか?
それは
「私たちが自分のことを重要だと考え、利己主義に陥っているから」
であると、ミゲルさんは言っています。
これは
「すべてのことは自分に関することだ」
という思い込みから生じるものなのです。
そうやって小さなころから飼いならされてきたからです。
それによって私たちは、
自分のことだけでなく他人の状態まで
「自分の責任」と考えるように刷り込まれてしまっています。
でも、本当は他人がどうであろうと私たちには関係がないし、
私たちが他人をどうにかすることはできないのです。
たとえ家族や親であろうと、自分以外の人間については、どうすることもできません。
みんなそれぞれが、「それぞれの夢(映画)」を見ています。
他の人は関係なく、「自分の夢」を見ているのです。
それなのにもかかわらず、私たちは他人が見ている夢を自分の夢と重ねてしまいます。
重ねてしまったとたんに、他人の世界で起こっている『毒』まで引き受けることになってしまいます。
そうやって他人の毒を自分の毒として飲み込み、
苦しむことになるのです。
そして物事を自分のこととして受け取ってしまうことで、
私たちは怒り、自分の信念を守ろうと反応してしまいます。
その結果、葛藤を作り出すことになります。
些細なことが大きなことになってしまうのは、
自分の意見を正しいものとし、
他人の全てを間違っているとしなければならなくなり、
「自分が正しい」ことを証明しなければならなくなるから。
もしも誰かの言うことで自分が傷つくとしたら、
それは
「言われたことによって触れられるような傷をあなたが持っているからである」
と、本には書いてあります。
自分で自分を傷つけている、ということなのです。
傷ついたり怒ったりするのは、
「誰かが何かを言ったから」ではありません。
それは言い訳にすぎません。
私たちが怒るのは恐れているからであり、実際には恐怖を相手にしています。
でも、私たちは、
恐怖ではなく「愛」を相手にしなければなりません。
本の記述には、
「自分を愛し、周りのものすべてを愛し、自分に満足し、
自分が投影している映画に満足して、
自分が結んだ合意に満足している時、その時すべては素晴らしく、美しくなる」
とあります。
「何事も個人的に受け取らないこと」とは、
人が何をし、考え、言ったとしても、
自分のこととして受け取らない、
ということです。
たとえ誉め言葉でさえも。
そして私たちが自分自身について持つ意見も、必ずしも正しいとは限りません。
思い込みや勘違いは常に存在しています。
だからこそ、
「それを受け取るかどうかは自由」であり、
「本当にそれを真実として受け取るべきかどうか」
を考えなければなりません。
受け入れるのは自由ですゾ)
何事も個人的に受け取ってしまうと何が起こるのでしょうか?
「何でもないことに苦しむように自分を仕向けてしまう」とあります。
私たちは他人の夢と自分の夢を重ねることで、
お互いの苦しみに中毒していて、
そうやってお互いの苦しみを支えあうことで合意してしまっています。
だからこそ、
「虐待されたい心があれば、他人によって虐待されるのは簡単だ」
とあります。
ここは非常に注目すべき点だと思います。
まさにこれが、
虐待されたりいじめられたりしいたげられたりすることの根本にあるものだからです。
幸せで自由な人生を送る夢(映画)を見ようと思うなら、
自分に嘘をつかず、真実の言葉を使い(第1の約束)、
他人をありのままで見るようになる必要があります。
そしてそれができるようになれば、
他人が言ったりしたりすることに傷つくことはなくなります。
すべてを自分のこととして受け取らない、
という習慣をつけられれば、
人生の多くの混乱を避けることができるのです。
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「何事も個人的に受け取らないようになるためには、
あなたを地獄の夢に縛り付けている習慣や決まり事を
破らなければならない」
「第1の約束と第2の約束を一緒に実行すれば、
あなたを地獄に閉じ込めている煩わしい、
細かな合意を8割近く破ることができる」
(本より抜粋)
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つまりこの約束を実行できれば、
私たちは他人の言動を信用する必要がなくなるのです。
「自分の人生に責任を持つ」ためには、自分を信じること。
私たちは自分に対してだけ責任があるのであり、
他人の状態や他人の人生に起こることに対して責任があるわけではありません。
それはその人の責任なのです。
(何をどう捉え、どういう選択をするかも含めて)
「この合意を守っていれば、
世界中を完全にオープンな態度で旅をしても、誰もあなたを傷つけることはない」
と、ミゲルさんは言っています。
つまり、
「虐待されたい心」がなくなれば、
自分の世界に登場する人は誰も私たちを虐待することはなく、傷つけることもないのです。
今まで見ていた「地獄」は、もはや何の影響も与えなくなるのです。
なぜならば、「登場人物は自分で決めている」からであり、
その夢(映画)を見ているのは自分自身だからです。
(いつでも夢を見ています…)
「見ている夢」を変えることで、
私たちは誰にでも「愛しています」と言うことができるようになり、
罪の意識を持ったり自分を裁くことなしに、イエスと言ったりノーと言ったりできます。
いつでも自分の魂に導かれていることができるのです。
とはいえ、
この約束を自然に実践できるようになるには
それなりにエクササイズを続けていく必要があると思われます。
私たちはどうしても他人に起こっていることを自分のこととして捉える癖が染みついているからです。
だからこそ、
誰かの機嫌が悪ければ
「私が何かしたんだろうか」と思ってしまうし、
何か問題が起こると
「私がもっとこうしていればよかったんじゃないだろうか」と考えてしまうのです。
(思い当たること、ありますよね?)
でも、
それぞれの人の世界で起こることは、
それぞれの人の責任であり、あなたの問題ではないのです。
もしこれから、
目の前で起こったことをつい
「自分のこととして」受け取ってしまいそうになったら、
「何事も個人的に受け取らないこと」
と心で唱えてみましょう。
目の前で起きていることを、
必要以上に自分のこととして捉えないでいられるようになります。
私たちは自分の世界を創っているのですから、
なにも辛く苦しい世界を創る必要はなく、
思い込みを変え、合意を変えさえすれば、楽しく平和で幸福な世界を創れるのです。
だからこそ、
最初に書いたように、
この約束と「自分の世界は自分で創っている」ことは、矛盾しないのです。
ぜひ、今日からやってみてくださいね。
次回、「第三の約束」へ続く。
ドン・ミゲル ルイス (著), Don Miguel Ruiz (原著),