大事なのは、場所ではなく、意識。~受験生たちへ~
(2019年2月11日 ブログ投稿)
クライアントさんから、
受験生のお子さんが試験直前に体調を崩してしまったと相談がきました。
レメディの指示を出したり、
色々励ましながら、
もうかなり昔の話になってしまった私自身の高校受験のことを思い出しました。
私は、受験日当日の朝、
車に酔ったのをきっかけに、
溜まっていた疲労が噴出して体調を崩してしまい、
保健室のベッドの上で受験をするという少々特殊な体験をしました。
体調不良で念のため保健室で受験するケースはあると思いますが、
殆どの場合、場所が保健室というだけで、
机を用意されて座って普通に受験をすると思います。
しかし私の場合、
それで済む状況ではなかったのでした…(苦笑)
受験でなかったら救急車を呼ばれていたと思います。
色々と重たい背景も絡んでいたため、
あまり誰かに詳しいことを話したことがないまま、
記憶の奥にしまい込まれていましたが、
今回、
高校受験2日前に体調を崩してしまった女の子を励ますために、
こんなこともあるんだよと、私は記憶を辿りました。
そして改めて、
たくさんのことを学んだ出来事だったことに気づきました。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
試験会場に向かう車に酔い、貧血を起こした私は、
ひとまず保健室のベッドで休ませてもらいました。
しばらく休んだおかげで、
試験開始前には、体調はなんとなく落ちついたと思っていました。
時間的にギリギリになっていたため、
1時間目の国語だけ、念の為保健室で受験して、
2時間目からは本来の会場の教室に戻りましょう、
と言われました。
ところが。
1時間目を受験している間に段々と胸が苦しくなり、
座っているだけでも辛くなってしまったのです。
後半はもはや試験問題を見ることもできなくなり、
作文問題も書ききれず、机に突っ伏していました。
解答用紙の二枚目に名前を書くことも忘れていて、
見かねた試験官の先生が、回収時に
「名前だけ書ける?」と言ってくれたほどでした。
(本当は試験官がそんなことは言ってはいけないし、名前を書かなかったら誰の解答用紙かわからず、得点になりません)
2時間目。数学。
休み時間は再びベッドで横になっていたために、
試験開始時になって、定規やコンパスを準備するのを忘れていたことに気づきました。
でも模擬試験でも作図など出たことがなかったから大丈夫だろう、と思っていました。
しかし、
この年に限って、作図の問題が出たのです。。。
「え~…」と思うわけですが、
なんでもいいやと、フリーハンドでテキトーに図を書きました(苦笑)。
更にこの時間帯には腹痛も出てきて、
途中でどうしてもトイレに行きたくなってしまいました。
でも一人では歩けず、
結局保健の先生に抱えて連れて行ってもらいました。
たった十数メートル先のトイレに行くのにも、2~3メートル歩いては、
しばらくしゃがみ込む、という状態で、
やっとの思いでトイレに行ってきました。
正直、もはや試験を受けるどころの話ではありません。
それでも受験なので、誰も助けられないし、やたらに声もかけられない。
やるしかないわけです。
見守ってくださっていた保健の先生は相当心配だっただろうと思います。
その後、気持ち悪さMAXで吐いてしまい、
座っているのも無理だと判断された私は(確かに無理でした)、
3時間目からはベッドに寝たまま、
クリップボードに試験用紙を挟んでもらい、
うつぶせで頭を起こすこともできないまま、試験を受けました。
保健の先生がベッドの柵に袋を括り付けて、鉛筆や消しゴムを取りやすいように工夫してくれました。
休み時間には鉛筆を削ってくれて、
何もできない私の代わりに、試験を受けること以外はすべてやっていただいた状態でした。
試験を諦めて家に帰りたいという思いもありましたが、
かといって動くこともできないので、寝ているしかなく…、
ただただ早く終わることを祈っていました。
もちろん、問題を解けたのかどうか、何を書いたのかも全く記憶に残りませんでした。
そして終わって疲れ果てた私は、眠ってしまい、
目を覚ますと夕方になっていました。
ベッドの周りには何人もの人が私を心配そうに覗き込んでいて、
(それは受験校の先生方でした)
びっくりしたのでしたが、
目を覚ました私を見てホッとしていました。
そして当時の私の担任の先生が車で迎えに来てくれて、
先生の車の助手席を倒してもらい、
横になったまま自宅まで送ってもらいました。
そして私はこれをきっかけに自律神経失調症となってしまい、
体調がすぐれない状態を長年過ごすことになってしまったのでした。
(その後の色々な出来事については、今回は割愛します)
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
運命とは奇妙なものです。
こんな状況だったにもかかわらず、
結局私は合格したのでした。
((注)これは私がすごいことを成し遂げたという話ではないので、
ここまで読んだ方は最後までちゃんと読んでくださいね)
どう考えても落ちていると思っていたし、
私はもうそれで良いと思っていました。
両親は受験日以降、ショックを受けている様子でしたが、
私自身は滑り止めに受けた学校の方にも興味があったので、
もはやどちらでもよかったのです。
体調も戻っていなかったため、
合格発表を見に行かなかったのですが、
受験校の近所に住む親戚が見に行ってくれて、
電話がかかってきました。
おめでとうと言ってもらったのですが、
喜ぶとか嬉しいとかいうより、
「……なんで??」
という思いしかありませんでした。
キツネにつままれたような、とても奇妙な感覚で、
一体何が起きたのか、と、よくわかりませんでした。
その後判明したこと。
その年は例年になく試験問題が難しかったのです。
難しすぎて、
平均点があまりにも低すぎて、
県の教育委員会でかなり問題になったそうです。(特に数学。前代未聞の低い数字だったらしいです)
なので、みんなが難しくてできなかった、
というのが真相です。
私の体調不良は、結果としてあまり影響を及ぼさなかった、ということなのでした。
いずれにしても、
私がこの体験と、
その後に起きた自分の人生の出来事の中で学んだことは
「人生は、なるようにしかならないのだ」
ということ。
例えば、
死にそうな目に遭っても、
死なない時は死なない、死ねない。
一方「その時」がくれば、
あっけなく死んでしまうこともある。
受験も同じです。
もっと言えば就職活動も同じ。
受かる時は受かるし、
どんなに頑張ったとしても結果には繋がらないこともある。
自分の人生の中で必要な結果を得るようになっていて、
必要なところに行く(導かれる)ようになっているのです。
中学受験や高校受験は、
人生の一大事になってしまっていますが、
本当は人生の中の「通過点」でしかないのです。
頑張ることを否定しているわけではありません。
目標に向かって頑張ることは、とても大事なことです。
でも、
ただそのこと自体が良い経験、学びになるのであり、
それで人生が決まってしまうかのようなプレッシャーを周りが与えたり、
本人がそう思ってしまうのは、本質とズレているのではないかと思います。
大事なのは、場所ではなく、
自分がどのような意識を持ち、どのように過ごすか、なのです。
だから、
自分なりに頑張って準備したら、
あとは神さまにお任せするしかないし、
結果はある意味、
「どちらでも良い」のです。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
私はもともと、学力のレベルで人を判断するのが好きではありません。
学校の名前や学力のレベルであれこれジャッジをしたり、
自分が上とか下とか、そんなことを拠り所にすること自体がナンセンスだと思っています。
勉強ができれば良いというものではなく、
「もっと大事なことがあるよね」
という考えを幼い頃から持っており、
学力を重視するタイプの大人に反発心がありました。
だから余計に、高校受験はストレスだったのかもしれません。
地域性もあるのかもしれませんが、
今の時代よりももっと、学力で明確に振り分けられる状況があり、
プレッシャーもかなりありました。
でも、
そもそも学力の高い学校、有名な学校に入れば人生がうまく行く、
というわけではないし、
保障されるわけでもないですよね。
大人ならば誰もが、どこかではわかっているはずです。
もっと言えば、
本当の意味での頭の良し悪しとは、
「学力」とは違います。
それも、大人であれば誰もがわかっているはずのことです。
わかっているはずなのに、
人はどこかでそれを期待することからなかなか離れることができません。
そのため、人は未だに出身校などの「ラベル」にこだわる傾向にあります。
それを手にすればうまく行く材料が増える、と思いたいわけです。
でも、それは幻想です。
大人たちは、
自分の体験から導き出された「幻想」を、
自分のなかにある「こうした方が良いに決まっている」、を、
子どもに押しつけてはいけないと思います。
学力や学校にこだわり過ぎたことで
鬱や引きこもりになっているケースも多いのは、ご存知のとおりです。
自分のプライドと成績に気持ちの折り合いがつかず、
不登校になったり鬱になる人が必ずいるわけです。
自信がなくプライドが高いほど、
それを「自分のステータス」にしようとしてしまい、
段々とがんじがらめになっていきます。
そして自分よりも「低い」レベルだと思う人がうまく行っていたりすると、
嫉妬してしまうようになるのです。
でもそんなことで自分を鼓舞しながら生きるのだとしたら、
それこそ、もっと大事な視点からモノを見ることができない、
貧しい人生ではないかと思います。
実際には、
どこに行っても、
どんなに良さそうな「ラベル」をもらっても、
その先の人生の保障などありません。
全てが「体験」であり、体験そのものの中に学びがある。
それだけです。
「結果に重きを置きすぎない」ことが大事です。
良くも悪くも、「今」を見ただけでは本当にそうかどうかはわからないからです。
仮に「良い結果」だったとしても、
そのこと自体に重きを置きすぎると、
この先に何かうまくいかないことがあった時に挫折感が大きくなりすぎてしまい、
「こんなはずではなかったのに」という想いが強くなってしまいます。
余計に自分で自分を苦しめ、追い詰めることになってしまいます。
でも、
どこに行っても次のステップはやってくるし、
試練も必ずやってくるのです。
大事なのは、場所やラベルではなく、意識です。
人生を「長い目」で見つめながら進んでください。
頑張ったこと、その経験そのものが、魂の肥やしです。
大きな視点で見たら、
目の前にあるものは皆、「小さなこと」でしかありません。
どの道を通っても、
あなたの意識次第で、
ちゃんと「素敵な未来」は手にできます。
Boys be ambitious☆ですよ☆