恐怖は思考力を鈍らせる
今回は思考力のお話をします。
ご存知の通り、思考力は精神面の領域です。
精神面のエネルギーが高いからといって、
精神面が「健康」とは限りません。
その高いエネルギーを不健康な方向に使うこともあるからです。
もしも、
誰かを貶めようとしていて、
そのために「何をどうしようか」、
と考えているなら、
それがいくら明確で素晴らしく周到な計画であっても、
健康、健全ではありませんよね。
では、
精神面が健康であればどうなるのでしょうか?
簡単にいうと
「健全で思いやりのある、クリアな思考ができる」
ということであり、
「辻褄が合う比較や論理的考察ができる」
ということです。
ホメオパシーは、
身体、感情、精神すべてが健康であることを目指していくものですが、
身体よりも感情、感情よりも精神が
生体にとってより重要な領域であると考えます。
精神面の健康は私たちの体全体の健康に大きな影響を与えるのです。
物事を比較する時には
比較対象以外の条件は同じにしなければ、
そもそも比較にはなりません。
何かに対して、
一つの結論を導き出すならば、
一方の側からの意見や見方だけをピックアップするのではなく、
反対側の意見や見方をも考察し、
どちらが真実に近いか?
あるいは「真ん中」はどこなのか?
を考察する必要があります。
偉い人、偉そうな人、権威のある人の意見だからといって、
正しいとは限りません。
例えば医師にも大学教授にもいろんな人がいます。
有名な大学を出ているからといって、
肩書で信用できるわけではありません。
ニュースが真実とも限りません。
行政や政府が言うなら安心・安全でもありません。
私たちは、目の前で起きていることに対して、
自分の思考力で状況を整理し、
「見極める」必要があるのです。
何が起きていて、どうなっているのか?
自分はどういう選択をする必要があるのか?
と。
(アタシは何に乗っているのかニャ?
キャットタワーじゃないのかニャ。。。)
ところが
不安や恐怖が根底にある人は、
思考力がうまく働かず、
辻褄の合う思考ができなくなります。
その「不安や恐怖」を正当化したり、増幅させる方に
簡単に流されてしまいます。
安心感を得るために行動しているのですが、
それはまるで目隠しをしたまま歩いているかのようで、
やみくもにやっているにすぎません。
どこに行くべきか、
自分が向かう先はどちらなのかもわかっていないまま、
こっちではないか、
はたまたあっちではないか、
とアワアワとしています。
そして周りの人もそこに巻き込もうとする傾向にあります。
もちろんそれは一人では不安だからであり、
「仲間」を作りたいからです。
こういう人は頑固です。
「進む方向が定まっていませんよ、辻褄が合っていませんよ」
という事実を冷静に述べても受け入れません。
むしろ抵抗することになります。
(やり方は様々)
それは、
今の状態でいることで、
不安や恐怖を握りしめていることを正当化できるからであり、
本当はそこから動きたくないから、です。
自分の不安を「自分が思ったやり方」で対処していたいのです。
「行きたい方向」とは違うとしても。
行動を修正することは今までの自分を否定することになるので、
抵抗し、逃げるのです。
それはそれで一向に構わないのですが、
こういう方は往々にして、
それでいて「困っている」と訴え続けます。
でもそうしている限りその不安は解消されることはありません。
向いている方向が「解消する方向」ではないのですから、
考え方、行動の方向がずれているのですから、
当然です。
(はて?おかしいニャ)
一方で、
「どうしよう…」と、ただオロオロしている、
というパターンもあります。
不安を募らせるばかりで、
対策や行動はしない、できない、
という状態です。
たとえば
「パニックになったらどうしよう」
「ガンになったらどうしよう」
と、
ただただ「どうしよう」で不安をいっぱいにしています。
これは、
行動を考えて選択する場合の
「何をどうしよう?」
とは違います。
「どうしよう」だけです。
思考は停止しています。
それはもちろん不安と恐怖を増幅させます。
「どうしたらよいかわからない」のですから。
しかし本当は、わからないのではなくてわかりたくないのです。
選択したくない、
行動したくない。
それをしたくないので思考停止にしておきたい、
という態度です。
こうしたら?ああしてみたら?
という提案にはなかなか乗りません。
こうだから、
ああだから、
と理由をつけて動かないことの方が多い。
最もそうな理由が表示できるならなおさらです。
本当に解決したいなら、最終的には行動するしかありません。
「どうしよう」と言っているうちに時間はどんどん過ぎてしまいますが、
本当に困っているなら、そんな暇はないのです。
そして思考力が弱くて不安が強いと、
トンチンカンな方向に考えて「選択」してしまいます。
本人は辻褄が合っているつもりでも、
ズレてしまっている、
それは解決できる方向ではない(むしろ逆)、
ということが起こります。
特に「不安が大きくて真実から逃げたい」場合、
最もそうな理由をつけて本当の解決の道からは
逃げていくことになります。
そしてその事実に気づくことはありません。
当然ながらこれは思考力がクリアに働いているわけではないし、
自分自身に対して思いやりのある思考ではありませんよね。
つまり、
思考力がちゃんと働くためには、
精神・感情面の健康が必要なのです。
(働いてない??ネコだからいいんだニャ)
さて、では
「思いやりのある思考力」
とはどのようなものでしょうか。
ホメオパシーのスクールで精神面の健康について学んでいた時、
「一発の爆弾でどれだけの人を殺せるかを研究していた人が
自殺してしまった」
という話がありました。
爆弾を作れる、
しかもどうやったらよりたくさんの人を殺せるか、
を考えられるのですから、
その人は思考力はあったということです。
頭は非常に良いわけです。
しかしこれはどう考えてもヘルシーではありません。
人に対して思いやりのある人が考えられる内容ではないのです。
だからこそ段々と心の健康がむしばまれ、
自殺に追い込まれてしまったのです。
自分に対してであれ、他人に対してであれ、
貶めたり攻撃したりする思考は、当然ながら思いやりに欠けています。
そして、
「正しさを振りかざす」のも、思いやりがあるとは言えません。
あなたにとっては「正しい」としても、
それが全て正しいわけではないし、
他の人にとって正しいとも言えません。
心の状態が不安定だと「正しさ」にこだわる傾向がありますが、
そのような正しさは時に激しい攻撃性を持った「暴力」になります。
でも健康な心であれば、柔軟な思考力、柔軟な感情になり、
正しさという名の暴力を振るうこともなくなるのです。
今の世の中は、「思考力を奪う」傾向にあります。
子どもの頃から学校でも家庭でもそのようにしつけられてしまっているのでなおさらです。
健全な思考力で検証したら、
「ものすごく奇妙」なことで溢れているのにも関わらず、
それをできるだけ考えさせないよう、不安や恐怖を煽るニュースで溢れています。
何故そんなことになってしまっているのでしょうか?
一つ言えることは、
思考力が弱い人間の方がコントロールしやすい、
ということです。
もし私が何かの団体の「リーダー」だったとして、
大勢の人を意のままに動かそうとしたら、
その人たちから「思考力」を奪っておく方が
こちらの言うことを聞かせやすいと考えるはずです。
でもそれは、「みんな」にとっては良いことでしょうか…?
つまり私たちは、
その「誘導」に負けない強くて冷静な思考力が必要なのです。
つまりそれは
精神面の健康が必要である、ということです。
不安や恐怖によって思考力を奪われていないかどうか、
時々冷静に心の中を見つめてみることをお勧めします。