生きることに責任を負う、とは
(2020年10月 ブログ投稿)
クライアントさんに起きることや、
吐露される心情、
その時のテーマなどが、
不思議とシンクロすることがよくあります。
そのため、
ブログを書くと、
「私のことが書いてあると思った」
と感じられる方が多いようです。
(みんなでそうに思う、という…
おもしろいですよね(^_^;))
そんな中、
ここのところ浮上しているテーマは、
「自分(の人生)に対する責任」
です。
自分の人生に責任を負う
生きることに責任を負う
自分の選択に責任を負う
色々言い方はありますが、
さて、責任とは何なのでしょうか…?
必要以上に背負うことはしなくていいし、
それはするべきではありませんが、
この世界に生まれてきたのですから
「必要最低限」は背負わなければなりません。
(生まれてきたのは、自分でそれを選択したから、です)
責任を背負いすぎている人もいれば、
必要最低限の責任すら背負いたくないと拒んでいる人もいます。
どちらもアンバランスですし、
度が超えれば深刻な病気にもかかることになります。
逃げられるなら逃げても構わないのですが、
(それも選択の一つなので)
自分の人生に対する責任は、
逃げようにも逃げられないものなのです。
それでも逃げようとしたら何が起きるか?
病気になります。
体かもしれないし、心かもしれないし、
出し方、表現の仕方は人それぞれですが、
病んでいくことには変わりありません。
当然なのですが、
多くの場合、
出てきた結果だけを見ては、
「なぜ私はこんなことに」
とか、
「こんな風に苦しみたかったわけではない」
などと宣う(のたまう)こととなります。
見たくなければ目に問題が出るし
聞きたくなければ耳に問題が出る
理解できず、消化できないなら
胃腸に問題が出るし、
感情を見ずに抑え込んでいったら、
それはやがて凝り固まって毒素を出し、
ガンになります。
それは、ただの「結果」です。
(ネコ人生の責任…?なんだかニャ)
以前、
「ホメオパシーをやっているので、癌にはならないですか?」
と聞いてきた方がいました。
答えはNOです。
どんなに健康レベルが高くても、
ホメオパシーをずっとやっていたとしても、
時と場合によっては誰でもガンになる可能性はあります。
例えばどんなに健康な強い人でも、
最愛の人を目の前で急に亡くしたりしたら、
鬱になったり心臓病になったりする場合がありますよね。
つまりそれだけの強いストレスが急激にかかれば、
ガンにもなり得るわけです。
もちろん、ホメオパシーでケアをしていたら、
自己治癒力は上がり、
健康レベルも上がるので、
リスクを減らすことはできます。
もしガンになりたくないと思うなら、
なるべくならないように、
自分の状態をケアして、
ガンになるような種を減らしておくしかありません。
そこには自分で取り組むしかないのですから、
ホメオパシーでケアすることはとても有効です。
可能性はゼロにはならないけれども、
減らすことはできる。
そのためにやるわけですし、
心も体もより健康になるために、
自分に対する気づきや成長を促すことを助けるためにやるのです。
でも、
ホメオパシーは魔法ではありません。
例えば40歳の方が、
1〜2年間ホメオパシーでケアをして、
体調自体は以前よりも良くなったとして、
「ホメオパシーやってるから癌にはならないですよ」
などと言うことはできません。
40年間溜め込んだものをたった1〜2年ですっかりきれいにできるわけではないし、自分の問題がなくなるわけでもない。
日々新たに加わるストレスだってあるわけです。
そもそも、
もしホメオパシーを活用して本当に自分の問題に対して取り組んだなら、そんなに簡単ではないことはわかるはずなのです。
そこまで取り組んでもいないのに、
これをやれば癌にはならないだろう、
なんて、
それは虫の良すぎる話というものです。
考え方や取り組み方が根本的に変わらないならば、
病気にかかるリスクは減らないし、
そこに更に大きなストレスがかかるようなことがあれば、
ガンになることも当然あるわけです。
自分が抱えているものを片づけるのは、
自分の責任であり、
どんなに良い療法があったとしても、
簡単に「チャラ」になどなりません。
でも人はそれを求めるので、
安易に「薬」に手を出して、
すぐになかったことにしようとします。
ところがそれは片づけたことにはなりません。
散らかした部屋をきれいにしたいなら、
自分で片づけるしかないのです。
どれくらいかかるかは、
自分の力(エネルギー)と散らかり具合によります。
ごみ屋敷になってしまっていたなら、
半年間では無理ですし、
そこまでごみ屋敷ではなかったとしても、
ほんの少しずつしか片づけられないなら、
それだけ時間はかかります。
隠れたゴミがあるのを見ないで
表面に出ていた症状ばかりをなんとかしようとしていたならば、
リスクは減らせません。
どんな病気になるかは、
疾病素因という人それぞれのリスクもあります。
ガンになりやすい素因があるならば、
ある程度の負荷(ストレス)がかかれば、
当然、ガンになる可能性は上がるのです。
それをわかった上で、
なるべくそうにならないためには、
自分の抱えているものを見て、
受け止めて、取り組んでいくしかありません。
お手伝いはできますし、
あなたはお手伝いを頼むことはできますが、
誰かに代わりにやってもらうことはできないのです。
誰かの部屋(人生)ではなく、
自分の部屋(人生)だから、
です。
厳しいと感じるかもしれませんが、
そういうことです。
(ゴミ箱、貸してあげようか?)
話を「責任」に戻しましょう。
登山をするとします。
自分のリュックに、必要最低限のものが入っています。
余計なものまで入れたり、
人のリュックまで背負おうとする人は「やりすぎ」です。
キャパがそれだけあるなら良いのですが、
無理をしているなら途中で立ち行かなくなり、
自分の責任すら負えなくなります。
一方、
自分のリュックを背負おうとしない人、
自分で山を登ろうとしない人がいます。
小さな子どもでさえ、登山ができるような年齢ならば、
自分のリュックを背負い、登りますが、
もう十分に背負えるのに背負わない。
十分に登れる山なのに登らない。
背負いたくない、とごねていたり、
「こんな荷物を背負うなんて聞いてない!」
と怒ったり。
イヤイヤ背負って、
イヤイヤ登っている場合もあります。
当然ながら楽しくないし、トラブルも起こることになります。
しかし、
その山を登るかどうか、については、
既に「登る」と決めてそこにいます。
「そんなの知らない、聞いてない」
「こんな山だったなんて思わなかった」
「こんな道のりなら行きたくない」
残念ながらこれは通用しません。
なぜなら、
自分の魂が生まれる前に決めて、
承諾してそこに来ているからです。
自分の人生に対する責任とは、
魂が決めて登ることにした山を、
自分の荷物を嫌がることなく持ち、
自分の力で登ること。
休んでもゆっくりでも構いませんが、
登ると決めたのだから、
自分の荷物はちゃんと持って登るしかないのです。
そしてその荷物は、
「持てないほどの荷物」ではないし、
その山は、
「登れないほど困難な山」ではありません。
登り方や楽しみ方は自分で工夫できますし、
如何様にも変えられます。
その登山が楽しくなるか辛くなるかは、
自分次第なのです。
もし、途中で「登る約束を放棄」したらどうなるか…?
それはもちろん、やり直し、です(笑)
やり直しでも良いのですけれどもね。
でも、
ステージクリアを目標として登ることを決めた「魂」の立場からすれば、
できるだけ登れる方が良いはずですよね。
どうせ登るなら、軽々と荷物を持って、
その中にはわくわくするようなものを入れて、
周りの景色を楽しみながら登れると良いのではないでしょうか。
そんな風にしてみよう、
と、イメージするようにしてください。
私たちは誰でも、いつからでも、
それを選択することができるのです。
そしてそんな風にできたなら、
「自分の人生に対する責任」は、
そんなに重たく、難しくのしかかるものではなく、
楽しく軽々と持ち歩けるものに変わっていくのです。
(楽しく軽やかに登ろう。せっかくだから。)